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石垣島と台湾の通信を図る施設として建設された電信施設「元海底伝線陸揚室」、通称「電信屋」跡地が沖縄戦(太平洋戦争)で砲撃の被害を受けた状態で現存する「県指定史跡」です。
そんな戦争の生々しさを形として残された「電信屋」跡地が、「どういった役割を果たしていたのか?」現地取材をしてきましたので、そのレポートをお伝えします。
- 1896年(明治29年)に設立された戦争遺跡、通称「電信屋」跡地の歴史を独自取材しました
- 沖縄戦で砲撃を受けた現物の外観・内観が「360°ビュー」で丸わかり
- 「電信屋」跡地までの500m間のアクセスルートは道のりが険しいため詳しく紹介
電信屋跡地について
当時の呼び名は「電信屋」と呼んでいたそうです。
この「電信屋」跡地は、観光気分での見学スポットとは程遠いです。あくまでも市条例により、現状の地域を変更することが禁止された弾痕が残る建造物だけの平地にポツンとあります。
これにより建造物の復旧はされておらず、1896年(明治29年)に建設されてから130年以上も現存しています。
場所は沖縄県石垣市南西にある崎枝地区の牧場前にある小さな標識を目印に、車一台通れる凸凹道を500m程走ったところに「電信屋」跡地があります。
日本と台湾の関係性
電信屋は、日清戦争終結後に日本と台湾の間に重要な通信役割を果たしていました。
当時は日本が台湾を植民地として領有することになっており、監視目的のために石垣島と台湾の間に海底ケーブルを敷設する必要があったことから、「電信屋」を海岸沿いに基地として構えていたようです。
また台湾を植民地とした理由は、日清戦争が1895年(明治28年)に終結した下関条約1に大きく関係しています。日清戦争終結後、清(当時の中国)は台湾を日本に割譲2されました。
沖縄は台湾と近い位置のため、当時は砂糖などの生産地として有用されていたこともあり、日本は台湾領有の目的があったとされています。
実際に下関条約を交わされた料亭の写真がこちらです。

しかし日本は日清戦争で勝利を納めて下関条約を交わし、台湾を割譲したものの、この事は台湾側に一切知らされなかったそうです。このことを後で知った台湾は、独立すれば割譲する必要はないと考え、台湾民主国として独立宣言をしました。
日本側は独立を恐れ、急いで占領の手続きを勤しみ、樺山資紀3を台湾総督にし、清国の代表と台湾受け渡しの手続きを急ぎました。
手続きを終えた後、樺山資紀が台湾に上陸し、台湾と日本の軍用海底ケーブルを繋げました。日清戦争では琉球の所属問題もあり、台湾の統治も含めて情報を得る効率的な場所が屋良部半島の石垣島だったようです。
以上のことから海底電信線の中継地点として、石垣島に電信屋を設けたとされています。当時の日本はすでに情報の重要性が認識されていたことが、この「電信屋」の設立でわかっています。
電信屋跡地の碑文
電信屋が設置された経緯から弾丸によって痕跡に至るまでの歴史を簡潔に説明された掲示板があります。

元海底電線陸揚室
石垣市史跡
昭和61年9月25日指定俗にデンシンヤー(電信屋)と呼ばれているこの元海底電線陸揚室は、1897(明治30)年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた所である。
1895(明治28)年の日清戦争終結後、日本はその領有するところとなった台湾との間に軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、1896(明治29)年、まず鹿児島と沖縄本島との間に、ついで翌97(明治30)年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷いた。
これによって本土ー沖縄本島ー石垣島ー台湾間の通信施設が完成したのである。なおこの年、石垣・西表間にも海底線が敷設された。
開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のち逓信省に移管され、一般公衆用通信にも使用された。明治30年のことである。この年、石垣島では大川2番地に八重山通信所が設置され、一般公衆電報取扱いが開始されている。
なお、太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となった。無数の弾痕がこれを示している。なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
昭和62年10月
石垣市教育委員会引用:「電信屋跡の元海底電線陸揚室の碑文」
「電信屋」跡地は、石垣島にある明治時代の革命的なIT跡地ともいわれています。現代では電話、FAX、メールを活用した情報伝達が可能ですが、当時は海底ケーブルを用いた通信手段が必要であったことも、この電信屋記念日の碑文から学ぶことができます。


1895年(明治28)の日清戦争終結後、日本はその領有となった台湾との間に通信回線を敷設することにし、1896年(明治29)先ず鹿児島〜沖縄本島との間に、次いで翌1897年(明治30)沖縄本島〜石垣島〜台湾間・西表島間に海底電信線を敷設した。これにより、本土〜沖縄本島〜石垣島〜台湾間の通信回線網が完成した。
当初、通信回線は陸軍省が管轄していたが、後に逓信省に移管され1897年(明治30)7月1日八重山郡大川村12番地に八重山通信所を設置し一般公衆電報の取扱いを開始した。
以来この海底電信線は明治・大正・昭和の三代にわたって政治・経済・文化その他各分野の先駆けとしての重要な使命を、担っていたが太平洋戦争の戦災を受け昭和20年に破壊された。
21世紀高度情報化社会の到来とIT新時代を迎え、電気通信システムも著しく変貌しつつあるが、この海底電線の敷設された歴史的経過を永く残すため、海底電線の陸揚げ地であるこの地に記念碑を建立する。
2001年12月吉日
電信屋記念碑建立期成会引用:「電信屋記念碑建立期成会」
外観・内観360°ビュー
「電信屋跡地」は老朽化が進んでおり、ポールが仕切られている範囲でしか見学ができない状態となっておりますので、予めご了承ください。また内観を見たい方は下記の「360°ビュー」でご覧いただけます。
基本情報
| 跡地名 | 電信屋跡地 |
| 当時の名称 | 海底電線陸揚室 |
| 所在地 | 907-0452 沖縄県石垣市字崎枝 |
| 石垣市教育委員会文化財課の電話番号 | 0980-83-7269 |
| 見学 | 24時間可 |
| 無料駐車場 | 電信屋跡地前にて3台分駐車可 |
アクセスによる注意事項
現在の「電信屋」跡地は立ち入り禁止になっています。かなりの老築が進んでおり、天井がいつ落ちてくるかわからない状態です。おそらく観光名所に定めていないのは、こういった事情も絡んでいますので、十分な距離をとって見学をされてください。
電信屋跡地までのアクセスルートは500m前までしかGoogle MAPでは表示されておりません。その先は大変道が険しくなっている為、注意事項をお伝えします。

道中激しい凹凸があり、軽自動車で10㌔も出せませんでした。原付バイクだと安定が悪く、ロードバイクでも進むのは困難なため、無難に徒歩で進むのをオススメします。
また、轍も大きく残っていますので、雨の日の翌日に向かうのは控えた方が無難です。しかも車1台分がやっとで通れる道幅なため、対向車が来た場合どちらかがバックで譲る事になります。
レンタカーご利用の方は、車体を傷つけてしまうリスクがありますので、控えた方が賢明です。
「電信屋」跡地へ到着すると、奥にビーチへ抜けることができます。見学しつつビーチにも訪れるのをオススメします。
- 日清戦争の講和にあたり、日本と清との間で諦結された講和条約です。 ↩︎
- 所有物・権利などの一部の領土を分け与えるものです。 ↩︎
- 明治時代に活躍した元海軍大将・政治家です。薩摩藩の出身で、日清戦争では軍令部長を務め、その後は初代台湾総督にも就きました。日本近代化が進む時代を担った人物の一人として知られています。 ↩︎
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