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沖縄戦争の爪痕!石垣島を襲った津波の歴史や観光スポットまとめ

事実だけが物語る歴史スポット。

「そこに訪れて歴史を知る。」
「歴史を知って訪れる。」

いずれにしても「石垣島の事実を知る」ことには変わりありません。

本記事は、ありのままの石垣島の事実に焦点を当てて歴史を知っていただける内容にまとめました。

どのように受け止めるかは個人の感じ方に委ねますが、歴史という事実以外にも、ある「共通点」があります。

全ては最後の見出しに触れたいと思います。それでは、石垣島の歴史を見ていきましょう。

[記事内]

弾痕が物語る電信屋跡地

俗に言う電信屋(デンシンヤー)は戦争による弾痕が残る石垣島でも数少ない建造物です。

現在は老朽化が激しくなり、建造物は立ち入り禁止になっていますが、痛々しい銃弾の跡はリアルに見学が可能。

今から120年以上前に建設された当時の通信施設になります。

現地には、電信屋の目的を示す掲示板と立派な碑が設置。

電信屋跡地の奥は、楽園の様なキレイなビーチが広がっていますよ。

決して観光名所ではありませんが、現代の南の島を表現するトロピカルスポット+歴史に起きた戦争の事実だけが物語ります。

訪れる際は、通行に気をつけていただきたいので、行き方も下記にまとめました。

新栄公園の憩いの場にある弾痕の壁

市街地中心地から最も近い新栄公園に弾痕の壁があります。

この弾痕の壁はもともと石垣島地方気象台にあったものの一部を平和学習の目的に公園という憩いの場に置いたもの。

先程紹介した電信屋も銃弾の跡でしたが、場所は市街地からかなり遠く道も険しいです。

「銃弾の跡を見たい!」という純粋な目的であれば新栄公園の方が気軽さがありますよ。

幸い、人も賑わっていますので安心しながら見学が可能です。

新栄公園には戦争による弾痕の壁以外にも、平和の鐘という国内に5箇所しか設置されていない貴重な鐘も見学ができます。

他にも伝統的なシーサー本来の意味も記載しています。

自然災害の脅威を知る明和大津波遭難者慰霊之塔

明和大津波遭難者慰霊之塔(めいわおおつなみそうなんしゃいれいのとう)は、

今から240年以上前に八重山を襲った明和の大津波による8000人以上の被害に遭われた方々の慰霊の塔です。

津波という自然災害の脅威を忘れてはいけない後世に残していく為にも、明和大津波遭難者慰霊祭を毎年実施しています。

原則、観光スポットではありません。あくまでも複数の資料を基に事実の範囲で個人の見解は伏せて記事にしています。

どう捉えるかはこの記事の見出しを読まれ方々に、ありのままを感じていただき、委ねています。

予めご了承ください。 

詳細は、明和の大津波が襲ってくる後継を目の前で見た方から代々受け継がれたお話も参考記事に載せています。

明和の大津波を詳しく知りたい方はこちらからご覧ください。

2000年前の先島津波の津波大石

2000年前の先島津波と判明され、天然記念物に指定されたのは2013年のこと。

それ以前は長い間、明和の大津波による津波大石として語り継がれてきました。

「なぜ判明されたのか?」

科学の発展による2000年以上前の付着したサンゴを調査した結果、明らかになりました。

今でも潮の匂いが残る津波大石。その大きさを知りたい方は人と比較した動画も下記にまとめています。

中国と石垣島を知る唐人墓の歴史

唐人墓(とうじんばか)は中国人のお墓。

「石垣島になぜ中国人のお墓があるのか?」

そこにはとても悲痛な奴隷制度の歴史がありました。現代を生きる我々には想像を絶する碑文が刻まれています。

詳細記事を読むと理解が深まります。

唐人墓を知ると、本来の観光目的を少しだけ知ることができます。

唯一の屋敷跡地で知られるフルスト原遺跡

フルスト原遺跡は、いまから700年以上前の石垣島唯一の屋敷の可能性を秘めた跡地になります。

遺跡はサンゴの石垣が連なっています。観光スポットというよりは、そこにある自然な状態です。

長い年月をかけて風化された歴史の情景を感じさせられます。見つかった土器などは「八重山焼き」「中国の陶器類」です。

これらは生活に欠かせない土器であったため、お城というよりは人が生活する屋敷だと結論に至っています。

歴史の跡地から見る宮良湾を眺める展望広場もあります。

また、フルスト原遺跡はオヤケアカハチの居城の可能性があると言われています。

詳細はフルスト原遺跡の記事に譲ります。

石垣島の歴史人物でお馴染み!オヤケアカハチを知る

石垣島の歴史人物の中で最も知られているのがオヤケアカハチです。

いまから500年以上前の豪族で、

当時の人頭税制度(一人の人間の存在につき税金が発生する仕組み)を変えようとして琉球王府に討伐されました。

現代では、後世に語り継ぐために「オヤケアカハチ精神」の素晴らしさを年に一度の組踊りを石垣市民会館で公演されています。

「なぜ、琉球王府に一揆を起こしたにも関わらず石垣島では英雄として語り継がれているのか?」

その理由も下記に記載しております。

石垣島最北端の歴史スポット!平久保遠見台

平久保遠見台は石垣島最北端の地にある国指定史跡です。

一般的には「平久保崎灯台が見える景色」として知られています。

現地に訪れて初めてここが歴史スポットだと知る観光客がほとんどでしょう。現在は私有地のため登ることはできません。

平久保崎遠見台は、琉球王朝時代の海の交通や監視・通報の役割を果たしていたそうです。

八重山では遠見台のことを別名:火番盛と言われていました。

八重山初の遺跡ふしぎ発見!川平貝塚とは?!

八重山初の発見された遺跡が川平貝塚です。

貝塚とは、昔の人が貝を食べた後の殻を捨てる目的で1箇所に集められたことを指します。

が、実はもっと神聖な深い意味があります。

詳細は別記事に委ねますが、川平貝塚の場所までは現在立ち入ることが禁止されています。

理由は入り口の前が御嶽(うたき)になっているため。

人が訪れる場所に歴史物語の背景がある!冨崎観音堂

冨崎観音堂(ふさきかんのんどう)は初詣の日に石垣島で最も賑わう寺院です。

この地で合掌される方は是非!詳細記事を読んでいただきたい。

昔は「ふさき原」と言われており、唐人墓同様、中国人と関係しています。

しかし、唐人墓との違いは歴史の物語にあります。

冨崎観音堂の場合、再会というロマンと感動的な歴史の背景がある明るさがあります。

「初詣は冨崎観音堂に行く!」そんな方は知られざる冨崎観音堂物語を知っていただくと、合掌と祈願の意味の深さが理解できます。

約400年以上前の八重山最古の桃林寺の歴史と権現堂を知る

御朱印がいただけることで知られている桃林寺。

市街地近郊でありながら閑静な佇まいは感慨深いです。

一歩足を踏む入れると、両サイドの仁王像が歴史を感じさせます。

この桃林寺の記事を読むと、冨崎観音堂と同じく初詣に相応しい魅力と八重山を代表するお寺の意味を知ることができます。

宮良殿内を知る

※宮良殿内については、2021年までには記事投稿予定です。予めご了承ください。

星見石

※星見石については、2021年までには記事投稿予定です。予めご了承ください。

まとめ

現在の石垣島が築かれた背景には必ず意味があります。

その受け止め方と先代の方々が後世に語り継いでいます。

電信屋に関しても敢えてそこに形あるものを残すことで「何かを感じとる。」「そこに人が訪れ、価値を感じていただく。」

あなたは歴史をどのように受け止めるでしょうか?

受け止め方は人それぞれ違いがあります。

しかし、共通点はあります。それは、

「あなたが感じ・後世に語り継ぐ・残す」ということ。

歴史が人に与える影響は、そんな意味が込められています。観光との違いはココにあります。

観光は時代とともに発展し、変化します。

しかし、歴史の事実は時代の変化とともに変えることができません。

津波大石のように、あらたな発見で歴史の深さを知ったら語り継ぐ内容は人が変えることができます。

もう一度言います。

あなたは歴史を知ったらどのように受け止め、どのように伝えていきますか?

答えは、あなたがその地に訪れ、感じたらそれがあなたの答えになります。

「石垣島の歴史を知るということはあなた自身の新たな発見になります。」

小さな南に島の歴史を知る。良い旅になるよう、この記事が少しでもあなたのお役に立てましたら幸いです。

※本記事の情報は他サイトの情報を参考にしたものや現地で体験された時点の情報であり、情報の正確性を保証するものではありません。最新の情報は各スポットの連絡先までお問い合わせください。

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